昭和五十二年十一月一日 月例祭の教話
「親は子薬、子は親薬」というようなことを申します。親が例えば具合が悪くて休んでおる。聞きつけた子供が帰ってくる。顔を見ただけで病気が治ったような気がするというのですね。「親は子薬、子は親薬」こんなに素晴らしい密なる縁というのはございません。
お道の信心を頂く者が、こういう心の交流が天地との間に通うようになります時に、いよいよ天地の親神様の奥義が十二分に受けられることになるのです。まあ唱える言葉としては、「生神金光大神様、天地金乃神様」とお唱えをしておりますけれども、その、唱えておる天地金乃神様と私共との関わりあいというものが、理屈の上だけではなくて、体験の上から、成程神様じゃなあ。親神様じゃなあと言うことがいよいよ分かってくる。その分かる度合いが、深うなれば深うなるだけ、広うなれば広うなるだけ、おかげの世界も深う広うなって行くと言うのですから、ただおかげを頂くための親神様であってはならないということでございます。
皆さんよく、こりゃまあ時々参る方達が、必ず言う言葉ですけれども、「親先生すいません。本当頼むときばっかりお参りしてきてから」とこう言う。「お願いのある時だけ参ってきて、どうもすいません」「いやあそげなこっじゃなか、参ってきてもらやあ参ってきてもらう、願うだけでも参ってきてもらやあ有難い」けれども、頼む時だけ、願う時だけの神様ではなくてね。もう四六時中が願わずにはおられん。頼まずにはおられないという神様。
今日、研修の時に、今村勝子先生が、御神眼に頂いておりますのが、はっきり字で頂いておる。「二人行脚」と頂いた。二人というのは二人、こうは行なう。ぎゃくは脚ですね。難しい脚です。「二人行脚」。まあ私も本当のことは分かりませんけれども、どこへ行くでも、二人の足並みというものが揃うておる。どこへ行っても言うならば、二人連れ。
まあ「われ神と共にあり」というようなことを申します。理論の上ではここはすぐ分かるところですけれども、本当に神様と二人で、どこへ行っても歩いているんだということがです。分からせて頂くということが信心なんです。寝ておろうが、お便所の中に入っておろうが、神様と共にあるんです。自分の都合の良い時だけ神様に来てもらい、都合の悪か時は向こう向いといて下さいというような神様ではなくて、二人行脚の信心がだんだん出来てくる。一遍にでは出来ません。けれどもだんだんおかげを頂いて参りますと、成程親神様じゃなあと言うことが分かってくる。それはまた売れたまた売れたと言うように、おかげを受ける時ではなくて、むしろそれとは反対の時にです。右と願っても左、左と願っても右と言ったような時に、親心というものは分かるもんです。
「どうして私はおかげが受けられんのであろう」とあれやらこれやらと思うてみます。そして翻然と、成程、これではおかげが受けられんはずだと分かった時にです。初めて神様がおかげを下さらなかった訳が分かる。もし願い通り、頼み通りにおかげを下さる、「ああそうかそうか」と言うておかげを渡して下さるもし神様がござるとするならば、それは、ちっとはおかしい。本当の親じゃない。親なればこそ、長い間願うても願うてもおかげにならなかったが、分かるところが分からしてもらい、改まるところが改まらせて頂いたら、途端に神様がおかげを下さるようになった。それこそ親なればこそ、神様なればこそということが分かって参ります。
今朝から、東京から電話がかかって参りました。若先生からです。ここを発ちましたのは何日だったでしょうかねえ。末永先生があちらへ帰りますので、夫婦してあちらへ送りました。それで翌日、飛行機に乗ることになっておったが、もう飛行機に乗る寸前、ストップを食らってる。それでまあいろいろ調べられたり、またお話をしたりして、まあ何日になりましょうか、五六日にもなりましょうか。だんだん難しゅうなってきた。
大体、現在あちらで宗教活動が出来ないことになっておる。だから、宗教者としてはあちらへ渡航が出来ない。そこでまあいろんな農業移民とか、私は昨日、末永先生から手紙が長々と参りました手紙を見てから初めて知ったんですけれども、お茶の先生で行っとるです。理由が書いてあったから、お茶の先生と言って、本当にお茶でもしたことがあるならまだこれがしがばってん、あの人は知らんですもんね全然。それをお茶の先生。(笑)
だから、そういうね、嘘を言うて渡航するといったようなことをせずにね、堂々と「○○教でございます。○○教の布教さしてもらいます」ということを言うて、許可証をもらえと大使館の方で教えて頂いた。いやそれが出来るぐらいなら、初めからそうするんですけども、それが全然出来ないということであったので、まあ嘘も方便でそういうことになっておりますけれども、けれども、まあ手続きを執れば出来んことはないからというので、また新たな第一歩からやり直し、書類の作り直しをさして頂いて、毎日毎日大使館通い、あちらの要人の方達と交渉を続けておるらしい。
それで昨日の結果を、今朝から電話が掛かってきたんですけれども、とても一時に出来そうにないから、また一同が、明日はこちらへ帰らせて頂くという手紙が昨日。末永先生からは、その何日間かのいろんな模様を書いてよこしておりましたが、若先生からは今朝から、またこちらへ帰らせて頂くからということでございます。
あれ程に置いたものを取るように、まあ行く時には、それこそ「神馬にまたがって蹴散らして行くような勢いで行け」と神様が言うて下さり、その通りのおかげを頂いて、文字通り、「合楽理念を以てする他はない、海外布教は合楽理念による他はない」と言うて参りました。それが行けない。ひょっとすると今度はもう布教活動、例えば、向こうが、こちらの本当のことを聞いてしまったら、もう出来んと言うかも分からんです。けれども私は思うんですけれどもね、まあこういう時に合楽理念はどう説くだろう。こういう時に合楽理念はどう教えるかと言うふうに思うてみる時に、まず何と言うても、お礼を申し上げる以外にはないということでございます。
それこそ言葉も分からない。風俗習慣も全然違う。言うならば、他国と言うてもそれこそ地球の裏側と言われるブラジルの国の、しかも僻地であるところの、ビリグイに布教させて頂いて、それこそわずかの十日間もするうちには、人が助かるようになり、しかも、あちらの現地人はもとより、白人・黒人・在留邦人はもとよりのこと。さきほど西岡先生が申しておりましたように、半年の間に、六千名からの人の御取次をさして頂いておると言う程しに、まあいわゆる前代未聞のおかげが頂けれるのが、合楽理念であると分かってみればです。そういう実証が出来たというだけでも、これから合楽理念を引っ提げて、もし国と国との話し合いが出来て、自由自在に布教の出来られる所に、世界各国どこにでも、合楽理念を引っ提げて布教するならば、布教が出来る。おかげが頂かれる。言葉が分からなくても、風俗が違うておっても、おかげが頂けれるという実証をさせて頂いたというだけでも、もうそれだけでも有難いんだということでございます。もうこれだけでも、後は何もなくなってしまってもです。もうそれだけでも有難い。もうそれだけお礼申し上げればいいのである。よし、ブラジルの方に行けなくっても、その体験というものはいつまでも、それこそ光り輝くことであろう。
私が、初めてあちらに行くことが難しくなったということを、お電話でかかって参りました時に、神様にお願いをさしてもらいましたら、こういう丸いね、丸い図案、図案化したこん中にたくさんの人が入ってる。それをこんなふうに図案化した人間がたくさん書いてあるところを頂いた。今度のことでたくさんの人が、それこそ天地金の親神様がです。それこそ、丸うせずにはおかんという働きが始まったなと思いました。
それにまた電話が、難しい問題でかかって参りました時に、神様にお願いをさして頂きましたら、「ラムネを飲んで」とこう頂くんです。そりゃもう難しいところに引っ掛かってからと。こりゃもう本当に分が悪かったと。あげなやつ引っ掛かったもんだけんで、ほんな、もう飛行機に乗る寸前に、まあ引っ掛かったとこういうふうな言い方をするんです。引っ掛かったんではない。あのラムネの玉なかならば、それこそ咽せるようなことになってくるでしょう。あの玉があって引っ掛かるから、丁度良い具合に飲めれるように出来ておるんです。「引っ掛かったんじゃない。神様のおかげで言うならば引っ掛かったかのように見えておるけれども、一切神様のご都合ぞ」というようなお知らせを頂きました。
今日、若先生が、電話を掛けてよこしました時に頂きましたのは、この傘を広げて、この破れておるか破れていないかを確かめて、こう見たところが、破れておったり、千鳥がけのところがこう無茶苦茶になっておったりしておる傘を開いて見たところを頂くんです。勿論ここでは傘というのは、それこそ、「この方の道は傘一本で開ける道」とおっしゃられます。「傘一本で開ける」ということは、傘一本で開けるということはありませんでしょうけれども、言わば、「傘一本持っておれば安心だ」ということなんです。どういうお天気の日にでも、少し雲行きが悪うなってくると、これは降りはせんじゃろうか、濡れはせんじゃろうかと心配が起こって参ります。ところが傘を持っておりますと、心配もない。降ったって、降るなら降れという腹が決まります。大概おかげを頂いて、安心のおかげも頂いておる。神様も信じ切っておる。「合楽理念の素晴らしいことが分かった」と言うておるけれども、どこのあしにか持っておる言うならば安心の傘が、もう修繕を要するようになっておるんだ。それを確かめてみるんだと。
今日、久留米の稲垣さんから、お届けがあったんですけれども、大分の方におられますご兄弟から電話が掛かってきた。もう大変な末永先生ファンです。ところが、今朝方からお夢を頂いた。それに私の方に末永先生がやってきておられる。「ああ末永先生」とこう顔を見上げたところが、顔がいっぱい汚れておりなさる。「まあ先生顔が汚れとんなさいますよ」と言うて、ガーゼのハンカチを差し上げたら、それで顔を拭かれたかと思ったら、「ああ疲れた」と言うて、そこに座り込んだところを頂いた。
まあ例えて言うなら、「合楽理念合楽理念、【 】それこそ置いたものを取るようなおかげの受けられる」とこう言うておった末永先生が、ここで一つ大きな、引っ掛かったんじゃないけれども、引っ掛かったと自分では思うておる。どこに御粗末が御無礼があっただろうかと、反省は必要であると致しましても、それを神様のご都合として有難く受けて行くということは、まあだ出来ていない。もうそれこそ半年間も本当にまあ言葉で言うならばです。もう本当に寝る時間も寝らず、食べるもんも食べんというぐらいに一生懸命に頑張ってきて今日、そしてここでこういう引っ掛かりになるとはと、もうヘトヘトになるような思いをしておるところではなかろうか。さあここで、自分の持っておった信心をもう一遍開き直してみたら、成程千鳥がけが少し修繕を要する。破れておるところはまたふせもしとかなければならない。そのためにま一遍合楽に逆戻りということになるのですから、もう実を言うたら、よりおかげの頂かれることのために、より有難い信心を身に付けさして頂くことの為の神様の御演出であるということが分かるのです。
私が丁度その頃、お夢の中に、私が子供の時からお芝居が大変好きでしたから、その時分は歌舞伎芝居がね、村々に来て掛小屋を掛けて、そして一週間とか五日とか興行致します。ですから、その、五日間ある時は、私は六日間行かにゃ出来ん。もう始まる前も、役者たちがどんどん一行が着いたという模様も見たい。小屋が崩れる時の模様も見たい。そげん好きでしたんです。だから、もし私が金光様の信心がなかったら、ひょっとしたら役者になっていたかもしれん。と言うぐらいに、もう本当に好きでした。ですからね、そのお芝居を、もう一時間もその上も時間を前から見にいっておるところを、言うなら私の少年時代のね、そういうことを頂いたんです。ははあ、これは言うならば目が覚めて思うんですけれども、これは神様の素晴らしい御演出だなと思いました。
だからそれはまあだ、そういう舞台の上で、どういう幕が上がってみなければ分からんのですけれども、その芝居好きというのはね、あの幕間の、その幕間がいいのです。楽しいのです。今度は、あの役はあれがするじゃろうとか、色々話し合ったり、お弁当どん食べながら、そりゃなかなか楽しいもんです。だから、幕間は少し長いけれども、楽しいことだという意味のことを頂いた。だから、さあ、ならよし一年後にしか許可が下りないということになっても、少し幕間は長いけれども、その間がまた、楽しい有難いことだという。言うなら合楽理念を以て、こういう場合どういうふうに合楽理念は説くかと言うたら、今聞いて頂いたように説くんです。
何と言うてもまず第一に、半年の間にああいう実績を上げたということの事実がね、その実証は、今後どこのどういう国にでも、もし布教に出られるならば、誰が行っても、あの調子で行けば、人が助かるんだという確信を持って出れれる。その実証を、その証しを立てたということが第一有難い。もう後は何もなくても、それだけでも有難い。それでもまた、折角あちらに布教の場が出来たんですから、なら、それが半年後一年後に例えばなりましてもです。そりゃ一年二年遅れるようなこっじゃないけれども、その反動というものはもっと素晴らしい勢いで、南米全土に広がって行くのであろうと思うたら、もう本当にお礼を申し上げる以外にはない。そのお礼を申し上げねばならないことに、へたばっておったり、お礼を申し上げねばならないことに、不平が出たり不足が出たりしたんでは、おかげの邪魔になるということが皆さん分かる。
だからそういう御神意が分かるということがね、「親様なればこそ」というところを起点にして考えないと分からんのです。どうしてこんなに、なら、自分を、その、まあ暗い思いをさせられるだろうかと。「信心のある者とない者は、親のある子とない子程の違いぞ」と教えられるが、親がないならば、例えば浮浪児なんかが、汚れとろうが破れとろうが、自分の良か時起きて、良か時食べて、そして遊んで回って、時々悪かことどんしとったって誰も言い手がない。親がないから、けれども親がおるならば、汚れとるならば、捕まえてからでも顔を拭いてやるし、いくら言うても聞かんならば、押入の中に押し込んで、「もういっちょもしません」と言うまでは、開けてやらないようなものなんだ。そこに親心が分かるようになる。
今日も研修の時に、親先生が何時も言われるように、「願わんでも頼まんでも、それこそ願い頼む以上のおかげが頂かれる。願わんでも頼まんでもおかげが受けられる」そういう信心を合楽では説きなさるが、ここ二三日のお話を頂いておると、親先生が「もう願って願って願い抜け」と言われる。いや「願わずにはおられん信心になれ」と言われる。「そこら辺のところが分からん」と言う修行生の方達があったんです。「今までは願わんでも頼まんでも、言うなら真の道を歩いてさえ行ければ、神様がおかげは向こうの方から下さるんだ」と。「改まり、研け、そのことに一生懸命になっとりゃ、頼まんでも、ズーっと神様がおかげを下さるんだよ」と。私は自分の家族のことなんか願うたこともないけれども、神様が家族の上にでもおかげを下さると言ったような調子のお話を皆さんが聞いてきた。それにここ二三日は、「願え願え」ということ。それもただの願いではなくて、願わずにはおられない。もう四六時中、ここからそこまで行くでも、願わずにはおられない。いわゆる「二人行脚」のおかげを頂くということをです。私がここ二三日申しておりますがね。
これは親であることが分かり、親神様であることが分かれば分かるほど、親神様の目からご覧になれば、私共は赤ちゃんにも等しいでしょう。その赤ちゃんにも等しい私共が、願わんでん頼まんでんこっち向いとくということじゃなくてね。それこそ親の膝にすがり寄って行く、そこから親が抱え上げてくれる。張っておる乳を飲ましてくれる。飲んでもろうて親も楽になるとう言う程しのおかげを頂かなければならん。為には、すがらずにおられんという信心を身につけよう。すがらずにおられんということは、成程天地の親神様だなあということが分かる信心を頂けと言うのです。「頼む時だけ参ってきて済みません。お願いばっかりで」というふうな願いではなくてです。親だからと分かったところからです。「親は子薬、子は親薬」といったような働きというものは、もう交流のし合いである。
私は何時も、泉尾の三宅先生のお話をする時に、「願って願って」と言う信心が分からなかった。「本当に私のような者を神様はここまでもおかばいを下さって」と何時も言っておられる。その「おかばい」という意味も分からなかった。けれどもここ二三日、それがなんか分かるような気がする。成程、願って願ってというのは、確かに親神様であることを、もう骨の髄まで分かって、だから、すがらずにはおられないのであり、願わずにはおられないのである。そして、その願いが右になろうが左になろうが、もうそこはあなたの世界であって、「お願いしたばってん、おかげ頂き切らじゃった」というような信心では、親だ子だということにはならんのです。願わずにはおれん。どうであっても。痒いなら痒いと言わにゃおれん。痛いなら痛いと言わにゃ。実感なんだ。その実感をそのままに神様にぶちまけて行けれる。すがって行けれる。言葉遣いなんか問題じゃない。順序なんか問題じゃない。お礼を言うて、お詫びを言うて、そしてお願いをせんならん。それは余りにも他人行儀だと私は言ってるんです。
「この頃はどうも大変お世話になりました」「この頃よかもんば頂いて有難うございました」と言うて、願うことは願えというふうに、まあ説かれる方もございます。私もそういう時代もあった。けれどもそういうことじゃないごとある。親子だから、もうそれこそ、痛いなら「痛い」と、痒いなら「痒い」とすがって行き、願って行き、掻いてももらう、擦ってももらうという生き方に信心がなってくるということは、いよいよ親神様を親神様と分かることであり、親神様を親神様と立て抜くことになるのです。
言うなら、張った乳を子供が飲んでくれないならば、親自身も苦しいことであろう。もうそれこそ乳が張るわいである。その苦しみを私共がおかげを頂いて、神様も楽になって下さるというのが、金光様の御信心だと言うのです。「親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く」というのは、そういうことなんだ。「牛馬のことに至るまで実意を持って願え」という。何でもかんでも願えとこうおっしゃってるけども、「実意を持って願え」とおっしゃっておるのは、その「実意」ということが出て参りませんと、親神様のお心がお心として声に伝わってこないのです。親神様の心と私共の心が交流する。そういう言うならば、見地にたっての信心。初めてそこから、「願わずにはおられない」という信心が生まれてくるのです。いわゆる「二人行脚」であります。
理屈の上では、親神様と申しますから、成程と分かりますけれども、自分の都合の良い時だけの神様であり、自分の都合の悪い時には、神様も何も放任しておるといったような、言うなら、普通で言う「お頼み信心」というのではなくて、親だと分かって見ればです。親子の情が通うてみればです。願わずにはおられないのであり、願うてもろうて神様も喜んで下さり、言わば、願うてからまた私共も有難い。
そういう意味でです。今合楽で言われる「五つの願い」というものは、どうでも一つ本気で、あれを祈っていってご覧なさい。必ず親心に触れることが出来る。体の丈夫をお願い致します。家庭に不和のなきが元であるから、家庭に不和のなきが元を願って行く。家繁昌子孫繁昌を願うて行く。どうぞあなたの手にも足にもならして下さいという御用をさせて頂きたい。天地の親神様の言うならば、お心が分かり、お心に添い奉ることのおかげも頂きたい。と言うように、「五つの願い」を繰り返し繰り返し願わして頂いておるうちにです。成程、それそのままが親の願いであり、神の願いであることが分かってくる。その親の願いと、子供の願いが一つになって、交流する時にです。これはもう言葉では表現出来ない。成程親神様だなという、言うなら情感もだんだん通うて来るようになる。その情感に生きると言うことでございます。
金光様の信心は何時も、親が見守っておってくれておるという情感の中にです。私共が生活をするということなのです。そこにはね、例えばどういうことになるかと言うと、子供が悪いことをしたというのを、「うちの息子がこげん悪いことした」と言うて吹聴する親は誰もおりません。例えばそういう悪いことをしても、それをかばいたいのが親心です。例えば悪いことをしておってもです。私共と神様との間にそういう本当の心情、親子の情が通うようになったら、行き届かないけれども、悪いけれども、つまらんけれども、神様のかばいにかぼうて下さって、御用に使うて下さるということになるのです。それは親子だから、かばわずにはおられんという神様の働きが生まれてくる。神様がこのような私でも神様はこのようにおかばい下さって、こういう尊い御用に使うて下さるということになります時に、分かるでしょうが。なぜ神様がかばいなさるか、親子だからかばいなさるのです。神様のおかばいを受けなければ、実を言うたらどこにお粗末御無礼があるやら分からんのです。そのお粗末御無礼を一々目に角を立てて、「お前あんなことした、こんなこと言うた」と言うて責め立てるような神様ではなくて、親子の情というのは通うてくると、それをかぼうて下さる働きが生まれてくる。おかばいの中に日々を、有難い勿体ないの信心をいよいよ続けて行くためにも、合楽理念は例えば末永先生の例を取りながら、合楽理念をかく説くんだということをまあ漠然とですけれども、今日は聞いて頂きましたですね。
どうぞ。